インド洋に浮かぶ「ニコバル諸島」をご存知だろうか?「アンダマン・ニコバル諸島」と呼ばれることも多い、インド領有の大小の島々だ。
ウィキペディア(Wikipedia)のアンダマン・ニコバル諸島の項を見てみよう。
アンダマン・ニコバル諸島(アンダマン・ニコバルしょとう、ヒンディー語: अंदमान और निकोबार द्वीप、英語: Andaman and Nicobar Islands)は、インド洋のベンガル湾南部に位置しているインドの連邦直轄地域である。アンダマン諸島とニコバル諸島は北緯10度線で分けられ、それより北がアンダマン諸島、南がニコバル諸島である。アンダマン・ニコバル諸島の主都はポートブレアである。
- 面積
- 8293平方キロ
- 人口
- 277,989人
- 主都
- ポートブレア
- 識字率
- 73.74%
- 主要言語
- 各部族の母語、ヒンディー語、タミル語及びベンガル語
インド洋大津波の被害は、毎日のように報道されるものの、アンダマン・ニコバル諸島の被害状況について、日本のメディアが取り上げることは、ほとんどない。
だが第二次大戦中、日本はこの島々を占領していた。ぼくの祖父も、昭和19年(1944年)10月から終戦まで、ニコバル諸島のカモルタ島に駐屯していた。無関心ではいられない。
数少ない記事を辿ってみた。
CNNの記事より。
壊滅の島で13歳少年 被害状況を手紙に
2005.01.06
Web posted at: 15:44 JST
– CNN/AP/REUTERS
インド・アンダマン・ニコバル諸島ポートブレア――スマトラ島沖地震の震源地から約400キロ北東の小さな島は、津波によって壊滅的被害を受けた。両親と高台に避難して生きのびた13歳少年が、5日後に救助されるまで、自分を取り巻く惨状について手紙に書き続けた。
(略)
正確な実態はまだ把握できていないが、人口約40万人のうち、少なくとも900人の死亡が確認されているほか、6000人以上が行方不明となっている。特に、震源地に近いカッチャル島では、4500人が行方不明となっている。
このカッチャル島で両親と共に生きのびたのが、13歳のコシ・マッケンロー・ジョンくん。来るのかもわからない救助を待つ間、ジョンくんはきれいな読みやすい文字で、手紙を書き始めた。
(略)
カッチャル島のほかの地域の被害状況が、しだいにコシくんたちの耳に入る。コシくんは、住民が全滅した村の名前を手紙に書いている。マリーン村、ウェストベイ・カッチャル村、イーストベイ・カッチャル村、ポンダ村、ジャンシン村、ヒタット村、そしてモッタタプ村。
「みんながみんな、命を失ってしまったんだ」とコシくんは書いている。
(略)
31日付の手紙では、やっと救助船がきてくれたとコシくんは書いている。心からホッとして喜ぶコシくんたち家族は、生存者を探しにきた救助船に乗せられ、カッチャル島から北隣のカモルタ島の避難所に運ばれた。
震源から近いニコバル諸島の被害の大きさがわかる。カッチャル島の津波被害画像(シンガポール国立大学)を見ると、カッチャル島の地形がすっかり変わってしまっている。
アンダマン・ニコバル諸島はインド洋の制海・制空権を握る上の要衝であるため、外国人の入域が困難である反面、先住民族が保護されている地域でもある。それゆえか、こんなニュースもある。
NIKKEI NET:国際ニュースの2005年1月15日の記事より。
インド少数部族、ほぼ全員が大津波逃れる・異変察知?
インド洋大津波の直撃を受けて約7500人の死者・行方不明者が出たインド領アンダマン・ニコバル諸島で、今なお石器時代と同様の生活を続ける少数部族のほとんどが難を逃れて生存していることが、インド政府の被害状況調査でわかった。高台や森に避難していたとみられる。
南北約800キロメートルにわたり約570の島が連なる同諸島のうち、小アンダマン島や大ニコバル島などの一部地域では、現代文明から隔絶され、やりや弓矢で動物を狩る五つの少数部族が暮らしている。政府の保護下にあるが、その数は年々減少し、最大のショムペン族で約400人、最も少ないセンチネル族は 39人しか確認されていない。 (07:00)
インド洋大津波では、野生動物が異変を察知して、被害を逃れた例は多く報告されているようだ。アンダマン・ニコバル諸島の少数部族は、現代文明が忘れた何らかの感覚を残しているのだろうか?
こちらにもコメントさせていただきますね。先ほど、食事中にNHKのニュースを見ていたら、被害のひどかったアチェ州では、水が引いたことを異変と思わず、逆に浜に取り残された魚を採ろうと、たくさんの人が海岸に降りていってしまって、そこを津波に襲われてしまったとありました。一方で、そこから20kmしかはなれていない漁民の多い村では、『水が引いたら津波が来る』という言い伝えがあったため、高いところへすんでのところで避難できたので、犠牲者が少なかったとありました。
地形、場所によっては水が引かずに津波に襲われたところもありますが、「異変の前触れを知っている」かどうかで、本当に差が出てくるのですね…。
さて、少数部族のことは、初めて知りました。今回の地震で、民族、習慣だけでなく、内戦の現状や人身売買の問題など、今まで世界の目に触れることがなかったことも浮かび上がって来て、ショックも受けました…。
やはり、とっさのときに知っていると知っていないとでは大きな差が出るんですね。
ぼくの郷里は和歌山県です。和歌山県では、度々、津波の被害に遭っているため、子供のころから津波の怖さを教わっていました。今回の津波で、「濱口梧陵」という人物と「稲むらの火」という故事に基づいた物語が改めてクローズアップされています。この故事も津波についての知識が無ければ成り立たなかったでしょう。(参考:防災システム研究所の記事)
現代文明に浸って、感覚が鈍ったぼく達には、災害に対する知識と備えが何より重要ですね。
インド洋沿岸諸国の困難は、これからだと思います。伝染病や、政情不安に付け込んだテロ、犯罪。人種、言語、宗教が入り混じった地域だけに復旧は一筋縄ではいかないでしょう。
少しずつでも、支援したいものです。
7年前の記事をきょう拝見しました。アンダマン・ニコバル諸島で検索してたどり着きました。私の実家も和歌山で、祖父が終戦を迎えたのはアンダマン・ニコバル諸島です。たぶん同じ隊に所属していたのでしょうね。祖父が亡くなって12年。終戦から67年。祖父からは戦争のときの話をよく聞きました。徴兵され中国、フィリピン、インドネシア(スマトラの話をよくしていました)、そしてアンダマン・ニコバルと、各地を転戦していたようです。とくにコレヒドール島(だったと思います)の敵前上陸の話は何度も聞きました。周りの兵士がばったばったと倒れていったそうです。戦争体験者がどんどん少なくなり、今こそ戦争ではどんなことが起きたかをしっかりと日本人として記憶、記録をする必要があるように思います。機会があればアンダマン・ニコバルやフィリピンに実際行ってみようとも思います。いろいろ情報交換ができればうれしく思います。どうぞよろしくお願いします。
8月は戦争に思いを馳せる機会が多いですね。
私の祖父は酷寒の満州から南方のニコバルへと転戦したそうです。終戦時は独立混成第37旅団に属していました。カモルタ島上陸後に爆撃を受け、輸送船が沈没したり、兵舎への空襲で眼の前で戦友を亡くしたりなどといった話を聞いています。
コレヒドール島上陸は激戦だったようですね。あらためて知りました。
フィリピンは行きやすいとは思いますが、アンダマン・ニコバル諸島はインド洋の軍事的要衝でインド政府が外国人の立ち入りを制限しているとの情報もあります。平和で自由に行き来できる世界というのは難しいようです。
私とかずさんは恐らく近い年代なのだと思いますが、戦地に赴いた肉親から直接話を聞けた最後の世代になるのかもしれません。次の世代に語り継いでいきたいものです。
私の亡くなった祖父も海軍としてニコバル島へ行ったらしく、原住民にフンドシをあげて食料(川海老やバナナ?)を貰ったり、「アカ」と言う名の馬を飼っていたが英国の空襲で死んだ、など何度も繰り返し聞かされました。祖父が生きて頭が確かな時にもっと昔話を聞いておけば良かったです。そしていつか祖父の見た景色を私も見てみたいと思います。
私もtougeさんと同じく島での生活をよく聞かされました。「菱形の大きな魚(マンタのこと)が群れていた」、「道に大きな蛇が何匹も横たわっていて梯子のように見えた」、「目の前で輸送船が沈んでいった」、「上陸はしたものの戦闘機に銃撃されて戦死した戦友」」などなど。
私たちは戦争体験を直接聞ける最後の世代かもしれませんね。大事に記憶を受け継ぎたいものです。